2014年12月29日月曜日

素直に一歩

一歩、踏み出す。
簡単な話で、やろうと思ったそのときに、思ったことを実行すればいい。
それだけの話。



今朝、福岡にある美術館のエレベーターを目の前にして立ち尽くしている女性を見かけた。
出身はわからないが、フランスかどこかの人だと思う。
僕も美術館に入りたくてこの建物に入ったわけだけど、残念なことに、3日前から1週間ほど休館しているみたいだった。
建物の前には大きく「北斎展」と宣伝してあるけど、これが始まるのは5日後だ。
彼女はエレベーターの前に書かれていた日本語の貼紙が読めないようで、目が合ったときに僕に「すみません。」と声をかけてきた。
「Is it closed?
と、不安そうな顔で続けた。
僕は英語をある程度しゃべれるので、張り紙にある内容を伝えた。
「残念だったね、閉まってて。」
というところまで話して、その場を後にした。
そして、なにか「もやっとした気持ち」が残ったまま、うろうろした。


この「もやっとした気持ち」を、僕はよく味わう。


今回の「もやっと」の原因は、残念ながら美術館に行くことができなかった海外から来て一人でいたと思われる彼女に、福岡のほかの名所をいくつか紹介くらいすればよかったな、というもの。

厚かましく「予定が空いたなら、一緒に観光に行こう!」とまでは考えないけど、美術館に行けなかったために空いた時間を別のことで楽しめる程度に、どこかを紹介、オススメだけすれば、彼女はそのあとで福岡を少し楽しめたのではないか。
余計なおせっかいだろうけど、一人で歩きながら、そう思ってしまった。


こういうふうに「もやっと」することが、よくある。


田舎の観光地で、アメリカから来たと思われる外国人二人が少し困っているように見えた。
田舎だから、英語を話せる人は少ないので、観光するうえでわからないことがあって困っていたんだろうと思う。
僕が「お困りでしょうか?」と声をかけてみたら、その二人の悩みは解決したかもしれない。
なのに、声をかけず、自分らだけ観光を楽しんだ。
その帰りに「もやっとした気持ち」が消えなかったけど、もうその二人の姿は見当たらなかった。


友達らと家で飲みながら食事を楽しんでいるときにも、数人が置いてあったギターを弾いてワイワイと楽しんでいる中、「弾いてよ~」と言われたのに適当にはぐらかして弾かなかった。
弾きたい気持ちはあったんだけど、なんとなく、下手に弾きたくないなーとも思っていたから。
もっと気楽にその場で楽しめばいいのに、なぜか「よし、一曲やるか!」となれない。
宴は終わって自宅に帰るわけだが、帰りながら「もやっとした気持ち」が現れ始める。
弾けばもっと楽しかっただろうな、と。


困っていそうな人に自分から声をかけてあげれないことにいらだったり、
どこかに遊びに行ったら思いっきり楽しめばいいのに中途半端な楽しみ方になったり、
買い物に行ってもほしいものを買わずに無駄に時間を過ごしてしまったと後悔したり、
食事に誘われても特に理由もなく断ってしまって後ろめたく感じたり、
すぐにすればいい作業や相談すればいいことでもギリギリまで自分だけで悩んで前に進めなかったり、

毎日のいたるところで「もやっと」を味わい続けている。


「もやっとした気持ち」の多くは、思ったときに素直に行動することで解決されるものだった。
素直に動くだけで「もやっと」しなくなれたはずだった。


こんな気持ちを味わう頻度が増えている気がする。
以前よりも、素直さが足りなくなっている気がする。


この文章を今書き始めたのは、この感情をまとめたいという衝動を「もやっとした気持ち」に変えたくないと思ったからだ。
最近、まとまった文章を書きたいと思うことがあっても、書かなくなっていた。
それが原因でときどき、「もやっと」していた。
不思議なことで、こうやって書いていると、そんな気持ちがすっきりしていく。
素直に書き進めるだけで、自分のこれまでを反省できる。
そして、記録として残る。
この記録を読み返しながら、今後の「もやっと」も減らせる気がする。


素直になろう。
思ったら、動けるなら、動こう。
一歩、踏み出せるときには踏み出そう。
誰のためでもない、自分のために。
難しくて、できないことをするわけじゃない。
やりたことをさっとできるなら、それをするのがいいだろう。

電源欲しさに、いつもは利用しない某カフェに来てみた。
これも「もやっと」解消のため。