2016年3月31日をもって21年間にわたる学生生活を終えました。
21年間…小学校6年間、中学校3年間、高校3年間、大学4年間、そして大学院5年間。
大学・大学院だけで9年間を過ごしました。
ということで、これまでの人生を振り返ります。
(注意:長いです!見出しを付けたので、長さを味わうべくスクロールしてください笑)
1988年に生まれる
1988年に山口県東部の田舎町で生まれ、育てられました。
都会の人よりは自然に触れることは多かったように思います。
幼いころや小学生のころは、兄弟やいとこと山や川に行って、虫や小動物を捕まえたり、釣りをしたり、秘密基地を作ったりして遊んでいたと思います。
雪が降ると、家族とよくスキー場へ足を運んでいました。
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とある夏の実家から見た景色。 |
小学校6年間
さて、1995年に小学校へ入学。
卒業時には全校生徒17名という小さな小学校でした。
昼休みには全校生徒総出でサッカーや鬼ごっこなどして遊んだものです。
2学年がひとつのクラスとして1人の担任の先生が担当されていました。
一人で学ぶスタイル
僕はというと、同級生がいませんでしたので、算数などの授業では基本的にひとりで教科書を読み進めていました。
時には算数の教科書が早く終わって、ひとりでサッカーボールを蹴っては走るというぐあいに遊んで時間をつぶしていました。
極めつけは、卒業式での独唱、そして生徒一人の集合写真。
すべていい思い出です。卒業アルバムや文集は確か作られませんでしたが。
小学校の合併にともなって母校は卒業とともに閉校しました。
そのときに埋めたタイムカプセルを掘り返すことは、ありませんでした。
そんな小学校生活で、ひとりで黙々と学ぶことには慣れたように思います。
あと、理科を教えてくれていた一色先生には、自然の面白さを教わったように記憶しています。
中学校3年間
2001年に中学校へ入学しました。
それほど大きくはない学校ではありますが、僕の学年は43人で、小学校のときと比べて人数は43倍になりました。
部活動では体操をしていました。成長期特有のけがに悩まされましたが、体は鍛えられました。
1年生の冬ごろに、姉が親戚からアコースティックギターを借りてきたことがきっかけで、ギターを始めました。
ただ、同級生とバンドを組もうと話した時にギター希望が3人いて、ジャンケンで負けてベースを担当することに。
ドラムセットを購入した友人宅で休日に小さなアンプに楽器をつないで、ご近所に申し訳ないほどの大音量で練習していました(苦笑)。
あと、従兄と友人と3人でよく山を登って石英などの鉱物を採取して遊びました。
おかげで自宅は岩だらけでした(笑)。
競争相手の存在
成績は確かに上位グループではありましたが、特段に勉強が好きということはありませんでした。
塾に行くこともありませんでした。
ただ、何人かの人と成績を競い合うことで、進んで勉強に取り組んでいたと思います。
定期的なテスト期間になると、ひたすら問題集や資料集をめくっていました。
負けるのが嫌いな性格は、このころに培われ始めたのでしょう。
小学校ではいなかった競争相手が、とても良い刺激を与えてくれました。
高校3年間
2004年春に進学校である岩国高校へ入学しました。普通科です。
1学年40人が8クラスで、そのうち1クラスは理数科でした。
部活動での競争
入学するとすぐに部活動を探すのですが、バンドでベースをやっていたので、部活ではコントラバスをやってみたいなと思い、吹奏楽を見学に行きました。
でも、吹奏楽でのコントラバスは脇役に見えたので(笑)、別の弦楽部であるプレクトラムアンサンブル部(通称プレアン)へ興味を魅かれました。いわゆるマンドリンクラブです。
こちらでは低音を担当するのはコントラバスのみで、人数も少なかったので、やりがいを感じました。
約8割は女性という部活だったので、高校で女性と過ごした時間は長かったと思います(笑)。
偶然にも僕の学年は理系生徒が多く、テスト期間になるとやはり負けたくないのでよく勉強をし、成績を競い合ったものです。
理系普通科の成績上位をほぼ全てプレアンで埋め尽くすこともあるくらい、みんな優秀でした。
最高のライバルと毎日過ごしていたわけですから、とても良い刺激でした。
一度だけ理系1位を逃したことがあるのですが、その相手は部活の同期で、すがすがしいほどの大差がありました(苦笑)。
男子クラスの雰囲気
2年生と3年生は男子クラスで過ごしました。
これもまた、高校生活では重要な期間でした。
文化祭の合唱コンクールでは負けて涙を流しました。
卒業式ではみんなで泣きました。
僕は卒業生答辞をしながら泣いてしまい、先生に男子が壇上で泣くのは異例と言われました(笑)。
はじめのうちは、午前中の休み時間に弁当を食べ、昼休みになるとすぐにサッカーをしに行くような毎日でした。
だけど、受験を意識するようになると、昼休みには男子クラス大勢で図書館へ行き、放課後もよく図書館や自習室で勉強したものです。
文化祭でもそうでしたが、なにかに集中したときにクラス全体の雰囲気がとても良くなるのは、このクラスの売りだったと思います。
受験でも、多くの人が進学に成功し、「黄金時代」だとか言われたと聞きました。
気象学者になりたい!
ここまで、ひたすら思い出話にふけってしまいました(笑)。
そんな中、気象学者になりたい!と思ったのは高校生活後半だったことを思い出しました。
高校1年の時は工学部を出て物を作るような仕事をしようかと漠然と考えていましたが、気が付くと、物を「作る」より物を「考える」理学部に憧れるようになっていました。
理学部の中でも、気象学を博士課程まで進んで学びたいと思うようになりました。
大学に進学したのは、「なんとなく流れで」とかではなくて、学位を取得して研究者になるという目標があったためでした。
直感的に目標を定めた部分はかなり大きいです。
ですが、「地球温暖化って大変そうだな、いろいろな本で批判もされてるし。なんで批判されるの?まだ解決してないの?気象学ってわかってないことが多いのかな」とか思っていたように記憶しています。
幼いころから自然に触れてきた僕にとっては、自然科学で何かを発見をすることはこの上なく魅力的なことでした。
特に気象の勉強をしたり、本を読んだりしてはいませんでしたが、「なんとなく」その魅力に憑りつかれていました。
とにかく、気象学を専攻したい。
その思いが、受験勉強に本腰を入れさせました。
受験勉強をするにあたって、プレアンや男子クラスの刺激は大きな助けでした。
また、面白い物理の高校教諭になりたいとふと思ったときに、「研究者になろうとして、それをやめて高校の教壇に立つことも実はありうる。それより一心に研究者を目指してはどうでしょうか」というぐあいに、当時担任の河村先生に後押しをされたのも研究者への道に本気になるきっかけでした。
あと、研究者になりたいけど高校教諭にも興味があると相談した友人に「みっちゃん(僕のあだ名)は研究者より高校教諭のほうが向いてる気がする」と助言され、反抗するように研究者への道に集中すると決めました(笑)。
塾には行かなかったので、休み時間にマニアックな数学や物理、化学を教えてくれた先生方には助けられました、感謝します。
とにかく、高校生活では、多くの方々からの刺激によって支えられました。
大学へ進学する明確な目標を手に入れることもできました。
そして、数学で大失敗をしたと思われた九州大学の受験もなんとか合格し、ついに気象学を学べる大学への切符を手に入れました。
九州大学理学部4年間
2007年4月に九州大学の理学部、地球惑星科学科へ入学しました。
寮に入って「伝統的なイベント」らに参加したり、軽音楽サークルに所属してギターを弾いたりしながら、大学に通っていました。
寝坊することもありましたが、必要な授業の単位を取得し、それなりの成績を維持していました。
今になって思い返すと、このころにもっと勉強をしていればよかったと後悔の念もわいてきますが、実際にはサークルで音楽をメンバーと一緒に楽しみ、時には曲を自ら作る作業など、それでしか学べないことを体験できたことはかけがえのないことです。
気象学との出会い
さて、1年生のときから週に1日は専門科目を朝から晩まで学ぶ日がありました。
その中には、もちろん、気象学の授業もありました。
気象学の概要を習い、やはり気象学が一番興奮すると感じました。
その時の先生が、伊藤久徳先生です。
あまり前の席で授業を受けていなかった不真面目な僕ですが、その授業だけは右の最前列を陣取ってよくノートをとったものでした。
先生は変な質問にも答えてくださいましたし、いくつかある中、この先生の研究室で学びたいと強く思いました。
3年生の夏に、重要なイベントがあります。研究室の振り分けです。
うちの学科では、基本的に20科目の素点の平均点で競い、希望者のうちで上位から順に定員まで配属されます。
第一希望の対流圏科学研究室の定員は3名で、希望者は8名。
なかなか大変なことになってきました。
まずは慣わしとして希望者で話し合います。それで、何人か違う研究室に希望を変えます。
それでも定員より多い人数が残ったので、やはり点数で競うことになりました。
幸い、僅差、確か小数点以下の差で研究室に配属されることになりました。
茶色い封筒から平均点の書かれた小さい紙を取り出し、見せ合う瞬間のスリルと、相手の表情は忘れられません。
なんであろうと、ようやく、僕は正式に気象を研究室で学べることを認められたのです。
それから、自習室が用意されたので、そこで「気象力学通論」という絶版の本を読みまくりました。
この本が、実は初めて読んだ気象学の教科書だったと思います。意欲のわりに遅いですよね。
それからしばらくの間は、
「やっぱり気象学はそそられる。」
「なんだ、数学はこんなにも気象学を説明するのに有用なのか。」
「おやおや、この教科書には行間とミスが多い。でも絶版はもったいない。」
と、そんな気分で、薄暗い自習室で過ごしました。
深夜のコンビニバイトも辞め、サークルの頻度も減らし、できる限りの時間と精神を学ぶことに注ぎ始めました。
3年生後半には研究室のセミナーに顔を出し、先輩たちや先生の研究話に耳を傾けました。
Fortranというコンピューター言語を習得するのも楽しいもので、いろんな簡単な計算を研究室に置いてあったパソコンでしていました。
そんな中、ひとつ大きな悩みがありました。
伊藤先生は、僕が修士2年生の終わりには定年を迎えて退職してしまうという事実です。
博士課程まで進学することを考えていた僕にとっては大きな悩みでした。
ただ、考えた上で九州大学で修士2年までは過ごす決意をしました。
ある先生にお会いしてたくさんお話しをしたりもして、魅力も感じたのですが、
直感的にですが、伊藤先生の指導をできる限り受けたいと思ったからです。
というわけで、4年の夏にある大学院入試は九州大学を受けることに決めました。
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Holtonさんの教科書を購入してハイテンションな私(21歳)。 |
研究室生活スタート
4年生になると、研究室で正式に勉強や研究をスタートします。
研究に必要な計算機の知識や論文の読み方や書き方などを学びつつ、気象学のより進んだ授業を受講することができました。
大学院生用の授業にも顔を出しなさいと伊藤先生に薦められ、院生に交じって伊藤先生の講義を聞きました。
この講義は、大学院修士2年までの間に3回受けたので、繰り返し使ったノートは僕の宝物となっています。
「どんな研究をしたいのですか?」
そう伊藤先生に面談で聞かれました。
どんな研究…、まだ勉強ばかりしていた僕には具体的な取り組むべき課題が思い浮かびませんでした。
確か、僕は
「大気と海洋が相互作用しているような、熱帯の現象について研究したいです」
と答えました。
なんとも漠然としていて何がしたいのか全く分かりませんよね。
研究室が大気の研究室ということもあり、先生は、
「まずは熱帯の大気から始めませんか。あとで応用はできます。」
と助言され、1報の論文を渡してくれました。
数式だらけの、White et al. (2005, QJRMS)の論文でした。
保存則を満たす4つの方程式についての論文。
この論文を読破するために、毎週の研究室のゼミで資料を作成して発表し、少し読み進め、を繰り返しました。1年近くかかったと思います。
はじめのうちはひたすら式変形をして読み進め、分かったつもりで揚々とゼミ発表をしていました。
ある日、先輩から
「式でそうなるのはわかるけど、それぞれの項や変形の意味はどういうこと?」
と聞かれ、答えられませんでした。
意味も分からず、ただひたすら数式で遊んでいたことに気づかされました。
それからでしょうか、式を見るたびに項の意味を真剣に考えるようになったのは。
博士課程の先輩を中心に開かれていた自主ゼミでも、よく方程式の意味について語り合ったものです。
そうやって、気象力学の基礎を学び、その面白さにさらに憑りつかれていきました。
上記の質問をしてくれた先輩には、感謝ですね。
4年生後半になると、みな卒業研究に取り掛かり始めます。
僕に課せられた題は、運動方程式で通常無視されるコリオリの力、非伝統的コリオリ項の熱帯における重要性を明らかにすることでした。
またまた数式とコンピューターとの闘いです。
熱帯においてその項が大きくなるだろうことはWhite and Bromley (1995)の指摘から明らかである。
それがどういうときにどんな理屈で無視できなくなるのか。
それを知るために数式を解き、数値計算を行い、考えました。
ただ、重要ではないと考えられてきた項はやはり通常小さいもので、なかなかインパクトのある結果が見つかりませんでした。
「数式上ではこの項にこんな役割を果たすが、その大きさはこんな程度でしかない」
そんな結論をよく得たものでした。
それもそれで重要だとは思いますが、卒業研究の終盤でようやく
「熱帯で1000kmスケールの雲集団があれば、その近傍で20%近くも大気の流れが変わりうる」
ということをメカニズムとともに見出すことができました。
九州大学大学院 修士課程2年間
2011年の春に修士課程に進学しました。
上述したように悩みましたが、九州大学の理学府、地球惑星科学専攻へと進学しました。
初めてのことだらけ
ここから、卒業論文の成果をもとに、研究者が参加する学会などで発表し、大学以外の研究者らとの交流が始まりました。
日本気象学会や熱帯気象研究会などの研究会、韓国やアメリカでの国際学会で発表する機会を得ることもできました。
当時の僕にとってはすべてが新鮮で、楽しいものでした。
なんでも、初めての経験は面白いものです。
怖さよりも心配よりも、まずは足を軽くしてみようと、論文執筆や国際学会での口頭発表などに挑戦してきました。
Michiya Hayashi, and Hisanori Itoh, 2012: The Importance of the Nontraditional Coriolis Terms in Large-Scale Motions in the Tropics Forced by Prescribed Cumulus Heating. J. Atmos.
Sci., 69, 2699-2716,
doi:10.1175/JAS-D-11-0334.1.
充実した大学院の始まりでした。
このころ、研究発表をどうやったらうまくできるかと、プレゼンの技術に興味を持ち、考えたりもしました。
相変わらず気象学に関する授業を受けたり、その傍らで論文を読みまくったり、教科書を先輩らと読んだりして過ごしました。
あまりプライベートでの遊びなどはありませんでしたが、研究室の先輩や後輩、先生、またクラスの同期などと居酒屋に行って語り合うのが楽しみでした。
研究テーマの転向
そうこうしているうちに、ふとした拍子で研究テーマが転向していきました。
修士1年の夏の、日が沈む頃でしょうか、先生に部屋へ呼び出されました。
なにやら数値モデルの中で赤道上を遅く東進している雲域が現れたと言うのです。
これは面白いぞと、いろいろな数値実験をし、方程式を変形し、考えました。
ひとりで考え込みすぎて、先生に何週間(数カ月?)も全く顔を見せず、叱られたこともありました。
夜中2時に大学の休憩室のホワイトボードに数式をつらつらと書いて「分かったぞ」と一人でにやにやしていたら、後輩に見つかって「どうしたんですか」と怪しまれたこともありました。
これまでの自分の考えと全く違う方法でそれを説明しようとして先生に軌道修正されたこともありました。
とにかく四六時中そのことばかり考えていました。
その答えは、おおよそ修士論文の段階で分かっていました。
その後も理解を進展させてきています。
いろいろ苦労があってまだ投稿中で出版されていませんので、詳しくは書きませんが、必ず出版させます。
Madden-Julian振動(MJO)という現象は、熱帯大気の中でも僕にとってとりわけそそられるものであり続けています。
九州大学との「別れ」
修士論文を終えるとともに僕は九州大学を離れました。
伊藤先生は退職されました。
修了の祝いの席で号泣してしまい、新しく着任されていた教授に「うちの研究室の学生は泣き虫ばかりだなぁ」と笑われました。
それくらい、僕はこの研究室が大好きでした。深く感謝しています。
そして、新天地へと2013年3月末に引っ越しました。
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九大の研究室旅行にて。 |
東京大学大学院 博士課程3年間
2013年4月に、入学試験を経て、東京大学大学院理学系研究科の地球惑星科学専攻へ博士課程の学生として入学ました。
東京大学ですが、所属は千葉県の柏市にある大気海洋研究所(AORI)で、渡部雅浩准教授のもとで研究を行いました。
日本学術振興会からの支援を得ることもでき、研究に集中することのできる生活を送ることができました。
再スタート
ここでの研究テーマとしてエルニーニョ・南方振動(ENSO)という現象を扱い、特に西風イベントという大気現象との関係に着目してきました。
ENSOは、2015‐2016年にかけて強いエルニーニョ現象が発生したのでテレビでもよく取り上げられていましたが、大気と海洋が相互作用することで熱帯太平洋の東部の海面水温が暖かくなったり冷たくなったりを3‐7年ごとにくり返す大規模な現象です。
西風イベントは、MJOにもよく関わりをもつと言われており、海面付近で強い西風が数日から数週間持続する現象で、熱帯太平洋の西部・中央部でよく発生します。
長い周期のENSOと短い周期の西風イベントが、いったいどうやって相互作用するのか?どういうときにその作用は大きくなるのか?相互作用があると何が説明されるのか?
そんなことをひたすら博士課程では考えてきました。
大気と海洋の相互作用は学部生の時から扱ってみたかった領域ですので、それに取り組めることはなによりうれしいことでした。
修士課程から研究テーマを大きく変更することになります。
研究テーマの転向は1度、修士課程の間に経験しているので苦労を分かっているつもりでしたが、なかなか始めは本当に苦労しました。
東京大学などが開発してきた大気海洋結合モデルは、いままで扱ってきた数値計算プログラムと比べて複雑で、ふるまいを理解することも困難を極めます。
ですが、モデルが複雑なだけあって、複雑な自然現象をとらえることができます。
いままでとは違ったアプローチでいろいろなことをまた考え始めました。
もちろん、ENSOに関わる多くの論文を読み、教科書も読み直し、新たに知識を得ていきました。
博士課程になると、自分のテーマについて自分より詳しい人はいなくなるので、なかなか孤独な戦いだなと日々感じました。
いくつかの仮説を立てては実験を繰り返しますが、毎度うまくいくようなことはなく、泣き寝入るようなこともありました。
正直言って、最初の1年間は思ったようには実らない期間でした。
それでも、渡部先生に相談しながら、なんとか研究活動を進めてきました。
そんな中で、自分で行ってきた数値計算に副産物が現れ、共著論文の執筆に携わることができました。
Masahiro Watanabe, Hideo Shiogama, Hiroaki Tatebe, Michiya Hayashi, Masayoshi Ishii, and Masahide Kimoto, 2014: Contribution of natural decadal variability to global warming acceleration and hiatus. Nature Climate Change,
doi:10.1038/nclimate2355.
また、2014年の春先にかけて西風イベントが2度起き、夏以降に強いエルニーニョ現象が起きるかもしれないと騒がれたこともあり、それに関する研究を夏に先立って進めていました。
当初の目的と裏腹に、その年にエルニーニョ現象は起こらず、またもや空振りの研究になるかと思いました。
タダじゃ起き上がらないぞと、そのための数値計算や観測事実を考えてみると、なんであんなに西風イベントが起きたのにエルニーニョ現象は起きることができなかったのかという疑問とともに、新たに仮説を立てることができました。
しばらくはその仮説の立証に取り組み、ひとつの形は見えてきました(いつか出版させます)。
出会い
その頃に、僕にとって大切な出会いがありました。
2014年の夏に札幌で行われた国際学会に参加しました。
そこで、空いた時間にビール村で飲食を渡部先生らと楽しんでいた時に、先生が
「ちょっと旧友に会うから、一緒に来な」
と誘われました。
そこに座っていたのは、札幌へ向かう途中に読んでいたENSOの論文の著者と、幾度となく論文で目にしたことのある研究者でした。
興奮していたところに、さらに、その方が電話をし始めました。
「FeiFei、いまどこ?」
「FeiFeiって、FeiFei Jin教授ですか?」と僕はすかさず先生に聞いたと思います。
(Jin教授は、ENSOの理論の一つを1997年に提案した方で、ハワイ大学の教授です。)
そうこうしているうちに、Jin教授と、数名の研究者や学生らがそこにやってきました。
ENSO研究のコミュニティーとの出会いでした。
全員を論文では知っていたけど、いま目の前にみんないる。
大好きなアーティストに遭遇したような気分でした。
学会期間の夜に居酒屋で「ビール」をみんなで楽しみました。
「ENSOもどきってのがあるが、これはビールもどきだな!!」
と教授らが発泡酒を飲んで盛り上がっていたのを忘れません。
ENSOコミュニティーは気さくな方が多く、話しててとても楽しかったです。
飲み会の二次会の後には豚骨ラーメンを食べに行って、ホテルへと帰りました。
このときの出会いは今後の僕の人生に強く影響しているし、これからもそうであり続けると確信しています。
2015年2月頭にオーストラリアでENSO研究者一堂に集う研究会が開かれました。
夢のような空間と時間です。
そこでまたJin教授と会い、近いうちにハワイ大学に行きたいと申し入れました。
そして、1カ月後の3月にほぼ1カ月間、彼の研究室にいさせてもらえることになりました。
すぐに準備をして、ハワイへ飛び、彼との議論と、ハワイでの生活を楽しみました。
ちょうど、Malteという学生が博士号を取得する瞬間にも立ち会えました。
(彼はその後、AORIに1カ月ほど研究しに来たこともありました。今では頼りになる良い友人です。)
ハワイでのJin教授との議論は面白く、将来はここに来て共同研究を行いたいを強く思いました。
とにかく、博士課程2年目の終わりに貴重な経験をでき、博士号取得への熱も高まりました。
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ハワイのラニカイビーチにて。 |
最後の1年
さて、西風イベントは確かに大事そうだけど、東風イベントも実は同じくらい大事なのでは?と業界では2015年に問題視され始めました。
東風イベントってなんだ?というシンプルな疑問から、それらをデータを解析することで調べ始めました。
2015年の晩春ごろでしょうか。
解析結果は、西風イベントも東風イベントも、同じような発生の特徴をもっているにも関わらず、明らかに西風イベントの方が発生しやすいということを意味していました。
直近のいくつかの研究と一見合わないように感じますが、それらの解析方法に問題があり、「ちゃんと」解析すれば僕の結果が正しいと結論付けられました。
その仕組みも含めて、学術雑誌へ出版させることができました。
Michiya Hayashi, and Masahiro Watanabe, 2016: Asymmetry of Westerly and Easterly Wind Events: Observational Evidence. SOLA, 12, 42-45,
doi:10.2151/sola.2016-009.
遅くなりましたが、これが筆頭著者として博士課程の間に出版させることができた初めての論文でした。
上記の研究がひと段落したのが、2015年初夏です。
もう秋には博士論文に関わる審査が始まりますので、学位取得の可否に関わる大変な段階です。
困ったことに、いままでの研究ではまだ物足りなく、博士論文としてはもう1章分は追加をしなくてはならないと先生に「助言」されました。今年の冬に博士論文提出は無理じゃないか、という意味です。
どこまでできるかは分からなかったけれど、あと1カ月だけ考えさせてくださいとお願いをしました。
そのあとはどれだけ集中したかは覚えていませんが、とにかく今までの解析結果を信じて、それを生かした数値実験を考案し、その実験を実行するように数値モデルを構築し、計算をしました。
1度でうまくいったわけではありませんが、何度か修正を施すうちに、これなら1章書けるかもしれないという手ごたえを感じることができました。
追い込まれていたから出した妥協策ではなくて、本当にこれはいけると思いました。
それまで苦しそうに過ごしていて、秘書さんなどにも心配をかけましたが、すぐさま先生と議論をし、体制を整えなおし、10月にAORI内での審査の日を迎えることができました。
最後に作った章はまだ粗削りでしたが、今後の見通しも踏まえて、次のステップへと進むことができました。
内容を精査して、45分という「短い」発表に備えました。
そして、11月に地球惑星科学専攻から博士論文執筆の許可をいただき、12月中旬にそれを提出しました。
それで終わりではありません。
次は、2016年1月中旬に公聴会という審査会があります。
これが、実質は最後の審査です。
しっかりと準備をしましたが、緊張しました。
その発表を終え、審査員の方々の話し合いのために、僕は一度セミナー室を退席しました。
待っている間は何をして良いか分からず、学生室の席で悶々と座って過ごしました。
30分くらいすると渡部先生が入室してきて、
「もう聞いた?」
と言い、
「まだ何も」
と答えると、
「僕から言っちゃいけないんだよー」
と言いながら、笑顔で僕の背中の後ろを通り過ぎていきました。
その後数分すると主査の先生が部屋の扉をノックし、その扉を開けると
「合格です」
と告げられました。
何と返事を僕がしたかはあまり覚えていませんが、とにかく安堵を感じ、ありがとうございますと言ったと思います。
そのあとすぐに渡部先生の部屋に報告に行きました。
それからいくつかの指摘を元に博士論文の最終版を作成し、2月中旬に、国立国会図書館へ寄贈されるハードカバーの製本を納めました。
これで博士課程ですべきことは終わりです。
博士(理学)の学位を3月24日に、本郷キャンパスで受け取りました。
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博士論文を12月に提出したときに撮影した東大の安田講堂。 |
終わりに
こうやって博士課程3年間を思い返してみると、博士課程の1年目から2年目前半は悶々として長く感じましたが、そのあとはあっという間に過ぎていきました。
3年間のすべてが貴重で、それを東京大学のAORIで、渡部研究室で過ごせたことには感謝しきれません。
ここだからできたこと、ここだから出会えた人。
すべてはここでしか経験し得なかったことです。
また、9年間の大学生活を思い返してみると、やはりそのときそこでしかできなかったことばかりです。
九州大学で過ごしたことは僕の基礎となていますし、人間関係もずっと続いています。
先日、九州大学を訪問した際に、伊藤先生のお宅で食事をしながらお話しできたことも、なにか感慨深さを思いました。
先輩方とも、関東に来ても時々会い、たくさん話してきました。
所属した大学に限らず、学会やセミナーで出会った全国、全世界の方々とも、会うたびに交流を深め、競争心を掻き立てるようなライバルでもあり続けるのだと思います。
これまでで大切だったのは、どこの大学へ進むかを選んだのではなくて、誰のところで過ごしたいかを最優先したことだと思います。
そうやって、気が付けば本当にたくさんの人と出会っていました。
これは財産です。
研究自体はときに孤独な闘いとなりますが、仲間はいるのは確かです。
励まし合い、指摘し合い、ともに気象学を発展させる仲間です。
僕は博士号を取得することで、ようやく研究者の一人となりました。
「博士」といっても、資格を手に入れたようなもので、まだまだ今は駆け出しの研究者です。
幸運にもその過程で出会えた方々やこれまでの経験を元に、ますます先へと行かなくてはなりません。
終わりはないです。
不思議なことが起こりました。
2016年1月に学位取得が認められれば、僕は気分が楽になることを想像していました。そう望んでいました。
しかし、そんなことはなく、むしろそれでもなお悶々とした日々が続きました。
「なんで認められたのに悶々としているのか」
と自問自答していました。正直、素直に喜べていないような、その悩みが苦しかったです。
その理由は、2月を終えるころにわかりました。
博士号取得は高校生の頃からの大きな目標でしたが、もう目標ではなくなっていたんです。
目標を達成する直前になって今までの目標はもう一歩先に移り、ある日の目標には永遠にたどり着けないんです。
次の目標は何でしょうか。
今の目標はありますが、またそれも気が付けば先へ先へと移り続けるんだと思います。
この繰り返しが人生なんだな、と確信しました。
それに気づいて、ようやく気が晴れました。
そんな繰り返しの中を生きていけるなら、とても幸せなことでしょう。
これからは今まで感じていたような不安を楽しみながら、前向きに研究をしていければと考えています。
21年間について長く書きました。非常に長いですが、全く書ききれません。
こんな長い間、教育を受けることを心配しながら見守ってくれていた両親に感謝します。
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実家にアカデミックガウンを持ち帰って、錦帯橋の前で撮影。
その後、実家で両親と写真を撮れました。 |
さて、2016年4月から新しい研究生活を、しばらくは東京大学AORIでポスドク研究員として楽しみます。
そのあとのことは、またどこかでお知らせします。
林 未知也
2016年4月2日深夜
千葉県流山市の自宅にて
4月3日朝 一部訂正